雑記
今日は何を考えてただろう
よく思い出せない
というのも、何も文章的な効果を狙っているのではなく
ほんとうに、まるで小麦粉を水で溶いたみたいに思考がどろどろしていて
なにを作っているのか自分でもわかってないみたいな感じだからだ
朝はやはり目が覚めた時に起き上がらないと眠くなる
郵便がきて飛び起きてそのままなんとか起きていた
ふと掃除を少しする
大掃除というほどのことでもない
台風の時、窓を開けていたらカーテンが汚れて
どうせ落ちないとそのままだったが洗ってみたらちゃんときれいになって感動した。
台風の時はこわかった。
これが年をとるということなのかなって思う
何が怖いって台風ではなく、なにごとか起きて避難所に行くことが怖かった
集団のなかに一人ということがとてもつもなく怖くて
恥ずかしかった。そして今外ではどうなっているのかわかるようでわからなかったからだ。ツイッターで住んでいる地域をいれて検索しても世の中がどう動いているのかわからなかった。後日、女性一人で避難所にいったひとの取り上げられた記事を読んで、一人で避難所にいけて、それをネットに載せられることがすごいと思った。
私のなかの何かが人と違うのだろうと思った。
話は変わるが、スタバにいってきた。とても悩んでしまい恥ずかしかった。
しかもギフトでもらったものの使い方がよくわかってなくて(人に贈ったことはあるのに)なんだかとても損をしたお会計方法になってしまい逆に疲れてしまった。
そして損したなぁが落ち着くと、あんなに悩むなんて恥ずかしいと思ってしまい。
もう思考がね、落ち着かない。
悩んでもいつもカフェミストだし。スタバを使いこなしているひとは世の中に何人くらいいるのだろう。
損をとっても、悩みまくったのもなんだかなぁである。
A県にいったあとのことを、家族が楽しそうに話すのをきいて
彼女の孤独をなんとなく知った気がする。
今は、自分ができる、これならやりたと思える仕事が決まったのなら
すっとA県に行きたいと思っている
やはり仕事はとても大事だ。
キンドルで少し本を読む。
目標を決めたら、逆算して生きるという本。
さらっと読むがなんとなく文章が鼻につくなと思った。
そしてちょっと上澄みっぽい感じ。
ほんとはもっということがあるけど、隠しているような感じ。
まるでもうけ話はあるけど、ほんとのところは教えないネットの書き込みみたいだ。
そしてビリーアイリッシュのインタビューを読んで、逆算なんてしない人も(彼女はとても若いけれど)いるのだと思う。それにほっとする。まぁ彼女にも目標はあるみたいだけれど。そして彼女は兄と製作していて、いつも母親がいる。つまり家族という何があっても離れない自己肯定感がある。そこがちがうよなって思った。
私には今それがとても大切だと思っている。
まだY県の彼女に会うのは早かったのではないかと。
というのも、私の思考が、彼女にあうのはこれが最後。
終わりだと思っていたから。私はもうだめで、本当なら彼女のなかにまだましな私で残っていたかったが、少し残った、人とのつながりを自分から切ってしまうことのためらいがあった。まだ彼女が少しでもあってくれるのならという思いであったが彼女は違っていた。私のなかで何かが過ぎ去り、再構築のときがきたのだと思っていたのだ。
そこが私には衝撃的で。それと同時に私はまだその時ではないのだと感じた。
立て直す前に、土台をきちんとしたい。
自分に対して少しでも落ち着いて考えられるのならば、今ほど揺らがない。
今は液状化した地面みたいにどうしようもならないのだ。
例えば、A県の人が冗談でバーで一か月だけ働いたことをメールしてきたが、本当に少しだけ前の私なら、なんなら今でも、それはまた働けってことか、と受け止めてしまう。でも今は、少なくとも昨日は、ダブルワークは私にはまだ早かった(ような)気がすると思える。それは目標がある人ができることだ。目先のことでもいい。何か買いたいからとか。でも自分に対して諦めているものは、それは無理だった。
そしてやってみて、自分は接客業が向いていないと気付いた。
毎月何があって、それをこなしていく。自分を整えて、それにむけてがんばる仕事が向いているとおもった。前の仕事は、だめにしてしまったけれど、職務内容は向いていないわけではなかったのかなと思う。その前もかな?バイトのときは、むいてないと思ってそれは変わらないから、やはり、急な、なんというか臨機応変は向いていないのだと思う。そしてそのことをだめだとか、否定する気持ちは薄れていた。
接客業が出来る人はずっと座ってる仕事は苦手かもしれないし、そこは人生は有限なのだから少しでも向いてることをしたらいいとおもう。選択肢があるのなら。
人のためになにかするなら、力が湧いてくる。でも(わがままなもので)だれのためでもというわけではない。自分が好きな人に対してだ。そしてそれはとてもシンプルで救われる。だってあとから考えた時に、あのとき、あの人に助けを求められたから、助けたかったから。だからそうしたのだ、そう選択した。そう考えられて、理由をいえるのは私にとってものすごく、めちゃくちゃに、はちゃめちゃにホッとすることだ。
本当はそうならいいのにと思う。でも、なぜか人生は、私に、私の快く生きろという。その道を探せと。それが一番幸せなのかもしれないのに。
まるで、せっかく平和な世界に生まれてきたのに、撃ち合いや戦争ゲームに傾倒していくみたいだ。
でもこう書いていて気付いた。
私はわたしがハッピーな生き方をしていいだなって。
いま、気づいた。
あーでもこわい。そうして生きているつもりでもあとで後悔したり恥ずかしくなったりということを繰り返しているから。
でもそれって対人関係だよな、職場の。
つまり職場で躓かなければ、だいたいいいのかもしれない。
A県で幸せなのか疑問は残るが、とにかく、はっきりしているのは
A県でこれだとしっくりくる仕事を見つけなければ、だめだってことだ。
今の私はべったりと出来る相手が必要なのだ。
いや、それは幼い時からずっとか。
いつかこの寂しい気持ちが埋まるかと思っていた。
幸せで満ちてるときもあったと、いおう。
それでも水をたくさん飲んでも、それで三日も四日も持つかというと持たないように、人生には常に水が、わたしには愛情が必要みたいだ。
だからより、愛が感じられるところにいくしかない。
行く必要があるのかわからないが、いまここでは見つけられなかった。
それは私の力不足だったのかもしれない。
ここで踏ん張ることが大事なのかもしれないが、それではクラッシュしてしまう。
まるで職場にとどまり続けたみたいに。
今できるのは、暗くではなく、なんとか明るい未来を指標に生きることだと思う。