やさしい顔のねこの日記

3回うつになっても生きているひとの雑記

雑記

昨日まで、何か食べるのも、顔になにか塗るのも

何もかも無駄だと思っていた。

じぶんにとってなにもかも無駄だし、それは生きているということが

意味がなくて、生きているのがしんどくて

未来になんの指標も楽しみもなく

それでも生きていて、それでも仕事をしてお金を稼ぎ

体裁をつくろって生きていかなければならないし

そういうすべての思いが恥ずかしいのも混ざって

とにかく、すべて無意味に思っていた。

 

夜中に、もう何もかもいやになって、物を捨てたくなり

よなよな処分のために集める。

朝になるとそんな自分に嫌気がさす

でも死にたい気持ちは確かにあったのだ。

そう思うことも恥ずかしいのだけれど。

 

A県とY県の間で揺れている。

友人のんちゃんの言っていることはしごくまともで。

自分のはじき出した結論というか今の考えがどれくらいべったりとした粘土のある思考なのかようやく知る。

 

A県にいくことは、本当にいいのか。

それは目先のあるかないかわからない心の安寧ではないのか。

その先にある未来を見据えているのか。

未来とは今とそのほんの先と、さらに続いていくもので。

そこを建設的に、前向きに、考えていくものなのだ。

私はそこが全くなっていなかった。

ただただ、ここから、今から逃れたい。

それだけだったし、それは今の仕事がいやという幼稚な考えもある。

孤独とか、なんだか人に見られて査定されていて、その上、恥ずかしいもの、と認定されているような気がどうしてもしてしまうから。

このままここにいては、一人でいてはだめになってしまう。

いや、もうだめなんだけど。

だめだから、もう死んでしまいたいと思うんだろうけれど。

それはまだ一日のうちで、すべてではなくて(大部分ではある)、完全にスリップしているのかもしれないけれど、まだ終わってなくて、その終わっていない部分が私をまだなんとかさせようとしている。

 

そこにすがってA県に、唯一、そのことを考え、行動していると落ち着く逃げ場にしている。

それを指摘された。

果たして、それがほんとうに手にしたときに、ほっとするものなのか。

なんだ、こんなものなのか。この先どうしよう。このままここにいてはいけない。

A県にいてはいけない。でも動けない、ほんとうにほんとうに終わってしまった。もうどうしようもできないと思ったときにどうするのか、ということを言われて私はパニックに陥った。

なのでいつものくせでその場を取り繕うとしたが、それすらも彼女にはわかっていて、

自分一人では誤った選択をしてしまう。そのとき、そっちは違うのではないかと、(依存するのはいけないが)言ってほしいと、それだけはこれまでの経験ではっきりしていて、そのためにもどこかに行くと言っているが、たぶん、あなたより現状しっかりしている私の考えを受け入れないならいっても無意味といわれ、あぁと思った。

あぁそうなのだ。わたしは強く思った。彼女の考えを受け入れ、それに明るさを見出し、その通りになれたならと。

でも私の中が、そこにどうしてもついていけない。

私には、Y県で新しい人間関係を築き、生きていくだけの、力とやる気と前向きさがなかった。どうしても湧かなかった。湧いてほしくてまた家に帰ってから、おおいに悲しんだ。迷った。Y県に行くといいたかった。明るい未来を建設し、対人関係を築きなおし、キャリアを積み、今後の人生を方向転換させる、これ以上ない申し出に、うんと言いたかった。でも言えなかった。

どうしてもどうしても、怖かった。エネルギーがわかなかった。

それよりも、どこかでひっそり休みたかった。

A県にいる家族の言葉を思い出す。

あんたは、今、私の懐で休みたいんでしょう?今はそれしか考えられないのでしょう?

それくらいにゆとりがなくて、限界なんでしょう?

仕事が決まったらおいでとは言っていたけれど、年明けて

決まらなければ、もう引っ越しておいでと言おうと思っていたと。

まだ守ってやれるから、守ってあげるからおいで、そういわれたことを。

わたしはただただ休むことしか考えられなくて、彼女の献血的な考えを脳が拒否してしまう。そのことを受け入れられなかった。受け入れたら今度こそ彼女を失ってしまう気がして。

そうして妹に電話をしてしまった。妹にいわれた。あなたは今、A県の人とY県の人しかいない、だからそんなに揺れるんだと。

その通りだった。私にはもうそれしかいないのだ。どうしてこんなことになってしまったのか。私にも友人といえる人が幾人かはいたはずなのに。

私が悪いのだ、私が悪い部分もたくさんある。それはわかっているが、おかしいと思った。あまりにきれいに精算されすぎている。

私は自分の人生の終わりを考えて物質的にいろんなものを捨てたりしているけれど、人生というものはもっと速やかに、対人関係というものを整理していたのではないか。

今私がこの世から去ったとして、そのことで少しだけ思うことがあるのはA県とY県の人くらいなのではないかと思った。

人一人がいなくなって、それくらいの範囲で済むのなら、清算がほんとうにうまいなと思った。つまり・・・と思った。そして、もう物を捨てるということで、何かを解消しようと思うのもやめようと思った。行動に移してもいいと思った。

ネットをみていると、でもやり方はついていなくて、そうだよな、そんなこと書けないものなと思う。

朝起きて、とりあえず目が覚めた時に起き上がらないと絶望しちゃって動けないので何も考えずぼうっとしている間に起きようと思うが起きれない。10時くらいにお布団からでて、書類仕事を片付ける。

A県の人と話す。

深い話はしないようにしようとするが話してしまう。

今は思い出せない。何を話したっけ。

多分明日思い出す。

仕事、今の仕事、対人関係があまりにピリピリしているからもう少し、気持ちが楽なものを探したらどうかということ。

そして、どんな仕事に就こうとも、こういうものかな、と思うこと。

夜が遅い仕事でも、うまく考えを調整してこういうものかなって思うこと。

ストレスがたまったら、カラオケしたり、運動したり、その人なりの解消法を探して楽しくやること。

彼女の考えは地に足がついているのだ。

私とは違う。私はだめだと思うとずっとそれにとらわれてしまう。

仕事も対人関係も完璧ではなく、不格好なそこに自分をなんとか合わせて、ほかのところでバランスをとるんだよな。でも決してみんな、それを投げ出さずにきちんきちんと一日をこなしていって、いやなら転職するとか、それでもすべてを壊すのではなく、少しずつ変化を図るんだよな。人に関しても土地にかんしてもそうなんだ。私はなにもかもめんどくさがって。だめなら逃げようとする。潔癖になってしまう。

そう思った、うまく言えないけれど。

そうして彼女は私の潔癖に関しても、いろんな人がいて、それでもみんなA県でも私はこうなんだからと、やっている。服が汚いと思ったら玄関で全部脱いで洗濯するひともいるし、あなたも潔癖な自分を否定するものではないよと言われる。

 

そういわれると救われる。

 

彼女が言ったことを一言一句覚えていたかったし覚えていると思ったけれどもう忘れてしまった。

 

スーパーに寄る。

ふと、来年の今頃は彼女といて、孤独や自分に対する気持ちがおさまっているかもしれないと思う。もしかしたら、A県にいることに安堵しているかもしれない。もう何年もお正月もクリスマスも大嫌いで見たくもなかったが、もしかしたら、久しぶりにほんとうに久しぶりに、少し安堵の気持ちがあるかもしれないと思う。

そうして、彼女がいてくれてよかったと思った。

久しぶりに息をした感じがした。

少し前向きになって、贅沢だと思っていたそばを買う。

明日、茹でて食べようと思う。

つい数分前は、カップそばですら自分には贅沢だと思ったし、それと同時にカップそばで年越しなんて、ほんとにわたしごときにはお似合いだと思っていたのに。

カップそばはおいしいが)

生そばを選んで、手にしていてうれしかった。

割引のサラダも買う。体のために選ぶのなんて久しぶりだ。

お会計をして思ったより高かったが、無駄なものは買わなかった。

 

家について、もろもろしているとY県の彼女から連絡が入る。

あぁ、彼女のほうを選べないんだ、それをいつか告げなければいけないのだとまた追い込まれた気持ちになる。

でも彼女はもう、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、私を嫌いになって、見捨ててもいいと(私が自身が)思うときにでも見捨てなかった。

彼女は言っていた、もう私を見捨てるなんてことはないのだと。

ずっと友達なのだと。私はそれだけは信じようと思っていたのに、また彼女を信じていないことに気づいた。そして彼女からの贈り物を開封してさらにそれは確信に変わった。私の好きなものばかりで、でもどれも私は私自身へ贈ってなんてやらないものばかりなのだ。自分には贅沢だと思うものばかりが、入っていた。そして彼女へ贈ったものへの心のこもってなさを恥じた。取り繕って送ったものだからだ。送りたいとか彼女が喜ぶとかじゃない。自分の心的な負担ばかり考えて選んでいた。そのことを恥じた。そうして、そうじゃない自分になりたいと思った。

それはほんとにじんわりとしたものだったけれど、思った。

もし、A県を選んだとしても、彼女と会い続けようと。

それよりも彼女と会えることを幸せに楽しみに思うと。

私がA県にいても、もう病むことなく、心穏やかにそうして彼女と計画的に会うことができたなら、彼女はそれをとても喜んでくれるのではないかと。

それが私にとっても、そして彼女のいう建設的な未来でもあるのかもしれないと。

Y県にいって、心穏やかでなければ意味がないのだ。

それはAでもYでも関係ないのだけれど。

彼女と会う未来を想像すると楽しい気持ちになったときに気づいた。

あ、楽しいことを考えたのは、未来で考えたのは本当にひさしぶりだと。

そうして考えられたことにとても心が震えた。

 

でも座っていると今度はA県のことが頭をよぎる。

Y県で同年代と楽しくやるほうがいいのではないか。

A県で彼女しか頼りがないなかでそもそも大丈夫なのか。

やっぱり潔癖症は?などなど。

でもとにかく、私は休みたい。そしてもう少し、自分に対して自信を持ちたい。それは自信満々とかではなくて、過去の選択や起こったことに対して、それが人生なのだと思いたいということだ。そうするしかなかったのだと。そうなってしまったが、それはいろんな形で人に対して起こっているのだと(私にはとてもそうは思えないし、私みたいになっているのは、私のまわりでは私だけでみんないろいろあるけれど、きちんと積み立てて生きているようにしか見えない)そう考えを落ち着かせたかった。

それはA県の彼女も言っていた。

みんな、その人はやめれとかその会社はやめれとか言われてもそのときはどうしてもと選んであとから、こうじゃなかったといって、嘆くけれど、そうやって選択しているのだと。そうして生きているのだ。あなたは、自分の選択を間違いで失敗だというけれど、そうじゃないのだと。

あなたのように東京にいて、やっぱりだめだと戻ってくる人もいるし。そんなときに家族のそばにいたいというのはまったく変ではなくごくふつうではないの?ということ。

 

お正月にA県の人といたときに、結局自室にこもっていたことも、一緒にお酒を飲むと必ずけんかをしていたことも思い出した。

でももうそのときとは、悲しさも伴うが違うのだ。

 

そんなことを思った。

とにもかくにも、A県にいくために仕事を探そうと思う。

何かをしていると心が救われる。

心には変化が起きている。